猪瀬直樹の歴史論
21:20:55
死ぬほど忙しい。でも、今日、猪瀬直樹が本郷で授業やってたから、帰りにふらっと聴いてきた。面白かった話をいくつかメモ。それにしても、相変わらず彼の態度は横(ry




21:20:55
死ぬほど忙しい。でも、今日、猪瀬直樹が本郷で授業やってたから、帰りにふらっと聴いてきた。面白かった話をいくつかメモ。それにしても、相変わらず彼の態度は横(ry
19:47:04
現在の問題意識。科学は専門性を構成する。なぜ科学が専門性を構成するかといえば、わたしたちは細かいことをわからないから。鉄道の細かい技術論なんて知る意欲も暇もない。そこで、専門家集団を「信頼」し、「仕組みはわからないけど信頼してるから使うね」という状況が発生する。専門性と無知と信頼は三位一体だ。また、社会が要求する妥当性の基準と、科学共同体内部の妥当性基準は異なる。工学者・科学者・技術者の学会内部で弾き出された「正解」が、社会にとっての「正解」とは限らない。政策的な解答は、つねに社会と科学者集団の接点にある。両方を含めて、正解は「構成される」ものでなくてはならない。さらに、「責任の所在」の話を持ち出すと、非常に複雑で、繊細な問題となる。
20:20:04
確率とか統計ってあらためて凄いなと感じるわけですよ。ちなみに確率の本質的意味は、ルーズな基準を許すこと。ある命題を<真/偽>で判断する場合、どちらかに振り分けなければいけない。でも確率ならば、真から偽までのグラデーションの曖昧さを許可することになる。どちらともいえない命題が許可される。これは画期的なこと。いいかえれば、結論に対して寛容だということ。(お天気予報をあまり恨まないでしょ?)
19:16:08
「この映画よくわかんないから教えて」と言う人がいるのだが、「よくわかんない」というのがよくわかんなくて、返答に窮する。もちろん、自分なりに一つの筋(プロット)を築き上げ、その軸に沿って出来事や登場人物のセリフを並べ替え再編成できた場合にはじめてスッキリするというのはわかる。自分が作り上げたプロットにそぐわないシーンは観客を悩ませる。筋の通った軸を作り上げられない場合、観客は苛立ち、誰かにプロットを代筆してもらおうとする。他人の映画レビューを読んだりして。
02:35:02
「実存は自由であるが故に、可能的実存として未完である」(Karl Jaspers)
悲惨な境遇。それでもいつか、「希望を持ちましょうよ」と思える日が来る。その時わたしは、「未検証の可能性」*1に賭けている。実現はされていないけれども、可能性はあると信じた瞬間、人は歩を前に進めることができる。多くの人が「未検証の可能性」に自分を賭けるとき、わたしはあまたの希望に取り囲まれる。そして社会は、復興へと動き出す。
先のことなどわからない。だが、未検証ながらも、わずかな、不確実な、漠然とした可能性を感じた瞬間、決定的に何かが動き出す。傍観者であるならば、「未検証の可能性」を何とかして伝えたい。わたしは、そしてあなたも、息絶えるまで、可能的実存として未完である。