思想の罠、あるいは社会学的暴力
2007/7/14, 8:02 by Gen
「可能性に満ちたセックスを構想する」でいろいろと書いた。でも、脱射精的なセックスが正しい姿だ、と言うつもりはない。普通の射精中心主義的なセックスでも別によいと思う。ある男女がいて、その男女がともにそれ(射精中心主義的セックス)によって幸せを感じているならば、まったく素晴らしいことだ。少なくとも、自分は結構満足している。
思想の罠。それは、現状とは別のあり方を進んだ考え方であるとし、現状の肯定を遅れた考え方だと見なしてしまいがちなところだ。ある個人、そしてその個人と関係を切り結ぶ他者が、幸せと感じるかどうかが最終的な判断基準であって、いくらデリダであろうとフーコーであろうと、その基準より特権的な立場に立つことはできない。田崎さんの『セックスなんてこわくない』でも、暗黙裏に、射精中心主義を「遅れた」セックスのあり方だとする論調が目に付いた。
Tags 社会(学), 恋愛/セクシュアリティ, 思想/哲学/言語(学) | No Comments » | 3,127 Views |
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