浜本満さんの断章いくつか
02:43:30
以下の引用はすべてttp://anthropology.soc.hit-u.ac.jp/~hamamoto/lecture/2004w/nov18.htmlより。一橋の半期分の授業を定期的に勝手に消費しながらニヤニヤしてるわけですが。元ページはここttp://anthropology.soc.hit-u.ac.jp/~hamamoto/lecture/2004win.html。
アイデンティティに関してこれは大事。
理解とは「同一性」においてではなく、ズレたかたちでしか成立しないものなのだという点を確認する必要があります。「私は何者か?」という問いは、おそらく私のアイデンティティ=自己同一性に対する問いと理解されるでしょう。しかしその答えはというと、つねに「私は先生である、男である、へたれである etc..」という「私」を私以外の何か(「先生」「男」などなど)とイコールで結ぶという、まさに異なるものを等置するという比喩的命題による答えなのです。この構図が示しているように、じつはずらすことそのものが理解の運動なのです。そしてそれが意味しているのは、同一的なものに対する一気の到達など不可能で、そこには際限なく続くチューニング(ズレの操作)があるだけだと言うことです。
02:31:55
比喩ではない表現などない、と言い切りたいのが本心です。ニーチェは我々の言語は比喩からのみできている、などといっています。例えば「木の葉」という言葉の最も普通の使用(つまり『木の葉』を指すのに用いる)ですら比喩だと言うのです。というのは全ての木の葉は厳密には一枚一枚異なっている。したがって、それらを「木の葉」という言葉で呼んでしまうことによって、異なっているものを等値する、木の葉A1(松の葉)と木の葉A2(かえでの葉)を同じと見立てる、木の葉A2と木の葉A3(銀杏の葉)を同じに見立てる etc.. という比喩的な見立ての操作を行っていることになると言うのです。つまり比喩を通じて、これらの異なるものの間に類似性を発見するということを行っているのだと。このニーチェの言い方でいうと、あらゆる言葉の使用は、すべて比喩だになるわけです。
‥あなたの質問の後半は、私が上の質問3との関係で触れた、「知的原理主義」の特徴を示しています。つまり、真の理解は、比喩ではなくそのものずばりの同一性の水準にあるべきだという信仰に基づいていると思われます。で、どこまで行っても比喩なら、結局理解など得られないのではないかと。比喩ではないところの自己同一性の水準が存在し、そこに到達できないのならすべて不完全で、駄目だという一種の原理主義です。私は知の原理主義は、理解の断念に通じる点で不毛なニヒリズムと背中合わせだと考えています(本物の理解を熱く求めている外見とはうらはらに)。私はもっと柔軟で、ある意味いい加減なプラグマティックな理解を推奨したいですね。実際には理解されるべき対象の自己同一性自体もまぼろしでしょう。そんなものは実はありはしない。それは、それ自体が自己自身とのズレによって出来上がった対象であり、それにズレを含んだ比喩(その対象をそれとは異なるものに見立てることを通して捉えようとすること)の連鎖をとおしてアクセスしていく、そして変動する対象に対してより繊細にチューンをあわせていくことをもって、終点のない理解のプロセスと考える、その都度の理解は、すべて暫定的でとりあえずのものだとみなす。不完全さを受け入れることも(それに満足することではなく)それが避けられないことであるのなら、重要です。
本当にそう思う。「本当の理解」「他者の真の理解」なんていけしゃあしゃあと言うヤツは、自分が陥っているトラップを忘却するがゆえに酔うことができる。



