思想よりも人物
23:56:56
鶴見俊輔という思想家がいる。彼と上野千鶴子と小熊英二の対談『戦争が遺したもの』http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4788508877/genweb-22/ref=nosim/を読む。いやー、鶴見さんってのは本当にすがすがしい人だ。彼は一つの「こう生きたい」というモデルみたいなものを与えてくれる。「戦時中は日本軍が一番の敵だった、でも日本人は嫌いじゃなかった」という話から始まり、朝鮮戦争、全共闘、べ平連の話へと続いてゆく。まわりのやつが何をしていたが、誰がどんなやつか、そして誰に仁義があるのか。それにしたがって身を振っていくいさぎの良さ。
ある考えや思想や哲学に正しいものは無い。だからそれに従って生きると狂った結果になる。要は誰を信用するかで自分の行動が決まってくるし、それ以上の基準は無い。「オレはやくざの仁義みたいなものしか信じてないからね」。これはおそらく決定的に大切なこと。思想そのものなんてほとんど屑にすぎない。考えそのものなんて、基本的にはどうでもよい。誰が・どこで・何を言ったか、そしてその人に対して自分はどういう感覚を抱いているのか。これこそが自分の倫理基準に他ならない。
最近つくづく思うのは、「語られた内容」よりも「誰が語ったのか・語った人はどういう人物か・どう語ったのか」の方が重要だということ。まず人ありき。だから自分は論理をそんなに信用していない。学問も信用していない。たとえばディベートで完敗したとしても、自分を打ちのめした相手に人間的な魅力が無ければ、それこそ笑っちゃうくらいどうでもいい話なわけで。悔しいという気すら起きない。コンスタティブ<パフォーマティブ。
その意味でも、「普遍」を求めるなんて狂気の沙汰としか考えられない。だからといって相対主義なわけでもない。「○○主義」なんて根本的にはどうでも良い。自分が何に賭けるか。そしてその上でどう行動するか。あるのはそれだけだ。「論理なんてまったく人を動かしてないんだよ」



