「物語」とはなにか

2007/7/27, 2:45 by Gen

 「物語」というキーワードは便利で、医学的に非合理的な要求をしてくる患者さんなんかを揶揄して「Story Based Medicine(SBM)の時代だよなぁ」なんて言われているみたいだし、わたしも「物語」という概念が大好きでよく使うんですが、そもそも、人間のアイデンティティを説明する場合に便利な「物語」という概念はいったいどういうものであるのか、若干掘り下げてみたいと思います。人間が「物語」を必要とする認知的・進化的な背景については、「心と意識のまとめ」というエントリーを参照してください。今回は、『自己への物語論的接近』の内容を簡潔に整理してみます。まとめで力尽きたので、コメントは次回以降で。なお、具体例・下線部は引用者が勝手に考えたもの。

 同書の著者、浅野さんによれば、まず、物語は3つの特徴をもっているという。

■物語の特徴

1.視点の二重性

 人が語るとき、語ることによって、語り手の視点とは別に、語られた物語の登場人物がもうひとつの視点としてつくりだされる。一方には語り手が聞き手に向けて語りかけている世界があり、他方にはそこで語られた登場人物が活躍する世界がある。物語を語るということは、この二つの世界あるいは二つのコンテクストを連関させることを意味する。

 たとえば、「あのとき会社を辞めてから、俺の人生の歯車が狂いはじめたんだよなぁ」と語るとき、現時点で物語を語る語り手と、そのとき会社を辞めた(将来どうなるかわからなかった)登場人物とが分裂している。

2.出来事の時間的構造化

 物語を語る行為は、無数の出来事の中から意味のあるものだけを選び出して相互に関連づける、選択と配列の作業だ。結末が納得のいくものになるかどうかを基準にして、どのような出来事をどのように関連づけて語ればいいのかが決まってくる。一つの物語は、「いつでもちがったように語りうる」という潜在的可能性を下敷きにしており、「ある一定の視点から見たならば」という仮定法的な性質を帯びざるを得ない。自己について語る場合も、自己はそれが物語られるかぎりにおいて、かならず結末から逆算された(振り返った)形で選択・配列されるのであり、事実ありのままの記述ではあり得ない。

 たとえば、さきほどの例でいえば、会社を辞めた後でもいろいろとポジティブな出来事はあったはずなのだが、「人生の歯車が狂い始めた」という(現時点での)結末を納得のいくように語る必要があるため、その筋に沿わない出来事は無視される。物語はつねに、語り手の現時点での結末から振り返ったかたちで選択・配列され、別様にも語り得た可能性を残す。

3.他者への志向

 物語の特徴は、それが本質的に他者に向けられた語りであるということ。物語は「納得いく」かたちで他者に向けて語られる。他者を納得させるように語られる。物語が聞き手に受け入れられると言うことは、他者と出来事の受け止め方への評価を共有することだ。語りとは、ある価値観が正当化され伝達され共有されていく過程であり、その結果、共同体が生まれる。

 物語行為は、その構造化によって結末を正当化しなければならないだけではなく、そもそも語り出すための権利をも正当化しなければならない。つまり、二重の正当化が必要とされる。1.聞き手を納得させることによって、語られた自分は始めて他者との間で共有された現実となり、自己は聞き手と同じ道徳共同体へ所属することになる。 2.そもそもこの物語を語るための権利は、他者に対して(あるいは抗して)正当化されなければならない。

 たとえば、さきほどの例でいえば、まず、自分の愚痴を聞いてくれる相手が必要だし、その愚痴を語る権利が正当化されなければならない。カウンセリングは「語る権利」を金で買うひとつの制度だし、友人がその権利を正当化してくれることもあるだろう。Blogも一例だろう。そして、「会社を辞めてから人生の歯車が狂い始めた」という結末を他者に納得してもらうには、ある価値観(会社から一度ドロップアウトすると社会的に厳しくなる)をその聞き手と共有している必要がある。モンゴルの狩猟民族にその話をしても納得してもらえないだろう。

■自己の語り

 このように、自己は、自分自身について物語ることを通して生み出される。自己のまとまりや整合性は、一定の視角から行為や体験を取捨選択し、かつそれらを一定の筋に沿って配列していくことによってはじめて生み出される。エピソードの選択と配列を通して始めて「わたし」があらわれてくる(語るという営みを通して)。過去の出来事を物語化する過程で、記憶はバイアスをこうむるが、このバイアス自体が自己そのもの。自己とは、たえまなく続く「心の中のおしゃべり」によって生み出され、支えられている。

■あるひとつの物語が排除している2つのもの

 さて、物語とは、結末を納得のいくものにするために、一定の視角から過去の出来事を取捨・選択するものだった。そこには二つの排除と隠蔽の構造が確認できる。

a. 可能性の隠蔽
 一つめは、ひとつの物語は選択と配列を通してつくられるのだから、その外部に語られなかった別の物語が排除されている、ということ(「語り尽くせなさ」)。いわば、ある語られた物語の外側に何かが排除されおり、排除が隠蔽されている可能性。物語が「別なようにも語り得たはずだ」という可能性の隠蔽。たとえば、さきほどの例でいえば、「仕事を辞めて自由な時間が増えて人生の奥深さに目覚めた自分」という語りだって可能なはずだ。1

b. 矛盾(自己物語の非一貫性)の隠蔽
 もう一つが、浅野さんの面白い視点で、ある語られたひとつの物語の内部自体に矛盾が存在していることの隠蔽。ある語られた物語は、一見、一貫しているように見えるのだが、実は内部に矛盾をはらんでおり、それを隠蔽してはじめて、一貫した自己同一性が生み出されるのだという。2

 一方において語り手としての「わたし」と登場人物としての「わたし」の視点は異なっていなければならないが(視点の二重性)、他方において、その登場人物は物語の結末では語り手に一致するのでなければならない。物語行為の主体(物語るわたし)と物語行為の主題(物語内のわたし)は、異なっているが同じでなければならない。

 たとえば、殺人を犯した者が、「いまの自分はあのころの愚かな自分とは違います。心を入れ替えました」というとき、「あの頃の愚かな自分(語られる主体)」と「心を入れ替えたいまの自分(語る主体)」は異なっている必要がある。だが、両者は、懺悔の物語の結末(現時点)では、一致していなければならない。「あの頃の愚かな自分」「心を入れ替えたいまの自分」に変化しました、というように。

 つまり、「わたし」が自分自身に対して、差異化すると同時に同一化する必要がある、というパラドックスが存在する。ふたつの「わたし」が完全に一致したら、もはや語りは起こりえないし、完全に差異化するならばそれはもはや「自己」物語ではあり得ない。発言そのものと、その発言の真偽を支える視点とが同じ語り手に属しているために、語り手は、語り手自身が変わったのかどうか、真偽を決定できない(自己言及のパラドクス)。たとえば、殺人を犯すほどひどいことをした者が、どうして現在もそうではないといえるのだろうか。また他方では、それほどまでに過去の自分と完璧に決裂してしまったのだとすると、その物語は彼自身についてあまり重要な事実を語っていないのではないだろうか。

■他者が自分の物語を納得してくれることによって、矛盾は隠蔽される

 自己物語が自己言及の形式を持った語りである以上、物語内部の矛盾は避けられない事態だ。にもかかわらず自己物語が語り手の「わたし」をそれなりに一貫した存在として生み出していくとするならば、矛盾(非一貫性)は何らかの形で隠蔽されていなければならない。隠蔽のために、他者が自分の物語を納得してくれることが必要になる。

 自己物語が他者によって受け入れられている限りにおいて、あたかも語りえなさ(矛盾)など存在しないかのようにことはすすみ、語り手の「わたし」もあたかも安定した同一性を備えているかのように現れてくる。それゆえ自己物語を通して語り手の自己が作り出され、維持されていくためには、聞き手である他者に物語を何とか受け入れてもらうことが重要であり、そのためにはさまざまな語りの技法が総動員される。つまり、聞き手である他者の視点を予想し取り入れることが重要だ。

■語りの技法

 たとえば、「懺悔」「回心」「死と再生の物語」というのは、過去の自分との断絶と連続とを同時に手に入れることができる、他者に自分の物語を納得してもらいやすくするための、語りの技法だ。

 ある社会において、自己物語として聞き手から受け入れられやすいものと、そうでないものとがある。受け入れられやすい物語は定型化され多くの人々に利用されるようになる。定型的物語を流用すれば、労せずして語り得ぬものを隠蔽することができる。だがその反面「わたし」の経験の独自性やかけがえの無さはその物語の型によって切り詰められ、ごくありきたりのどこにでもあるような出来事に変えられてしまう。

■ なかなか変われない自分に光を当てる

 あるひとつの物語が自分をかたちづくっており、他者との関係がその物語を規定しているのだとすれば、自分を変えることは簡単であるかのように思われる。しかし、わたしたちは、なかなか自分を変えられない。むしろ、変わりたいのに変われない自分にこそ光を当てるべきだ。単に物語の所産に過ぎない自己が、なぜこれほどまでに変わりにくいのか。

  自己が変わるためには他者との関係が変わらなければならない、だが他者との関係を本当に変えるためにはまず自己を変えなくてはならない、という循環関係が存在する。だから、自己が変わるイコール他者との関係が変わる、ではない。両方(自己・他者との関係)の変化が起こるためには、それらとは別の変化要因を考慮する必要がある。浅野さんは、これを自己物語の「語りえ無さ」(非一貫性・矛盾(b))にもとめる。

 自分が変えにくいということは、それだけ自己物語の非一貫性が隠蔽されているということだ。逆に言えば、自己物語を書き換える(異なった自分を生み出す)には、この「語り得ない」ものを見えるようにすることによって、一貫性や完結性を内部から揺さぶっていけばよい。外側ではなく、内側から。自己が変わるために必要なのは、他者との関係を変えることそれ自体と言うよりは、語りえなさの隠蔽を解除しうるように関係を変えることなのだ

#いろいろと示唆に富んでいますね。


  1. このように、「可能性を隠蔽」することで「自然性」をよそおうという物語の力を、ロラン・バルトは、『神話作用』以来一貫して指摘してきたと筆者はいう。「ある物語を<あそこ>からではなく<ここ>から語り始めなければならない理由は何もない。もし<ここ>ではなく<あそこ>から語り始めていたならば、今語られているのとは全く別の物語が繰り広げられていたかもしれない。そのような別の物語も論理的には可能であったはずなのだが、そのような可能性を物語は、さまざまなコード(一定の知と結びついた特定の語り口)を駆使して隠蔽してしまうのである。あたかもそこから語り始めるのが自然で当然であるかのように。そしてこのようなコードによる隠蔽は冒頭のみまらず物語の全体、その隅々にまでおよんでいる、と彼は言う」。

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  2. このように、「矛盾を隠蔽」する物語の力は、レヴィ=ストロースが指摘していたことであると筆者はいう。「つまりある矛盾が、現実には解消不可能であるのに、神話や物語の中では絶えず別のものへと置き換えられていき、そのつど暫定的な解決を与えられる。しかしそれはあくまでも暫定的な解決でしかないので、つねにつぎの置き換えが必要となり、置き換えは理論上無限数生み出され、神話はその現実的な矛盾が意味を失うまで螺旋状に発展する、ということだ。神話や物語とは、このような矛盾の置き換えと隠蔽のために用いられる語りかたのである。」

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Tags 社会(学), 思想/哲学/言語(学) | | 10,542 Views | add to hatena hatena.comment 4 users add to del.icio.us 0 user add to livedoor.clip 1 users |  http://blog.genxx.com/wp-trackback.php?p=222
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