思想の罠、あるいは社会学的暴力
「可能性に満ちたセックスを構想する」でいろいろと書いた。でも、脱射精的なセックスが正しい姿だ、と言うつもりはない。普通の射精中心主義的なセックスでも別によいと思う。ある男女がいて、その男女がともにそれ(射精中心主義的セックス)によって幸せを感じているならば、まったく素晴らしいことだ。少なくとも、自分は結構満足している。
思想の罠。それは、現状とは別のあり方を進んだ考え方であるとし、現状の肯定を遅れた考え方だと見なしてしまいがちなところだ。ある個人、そしてその個人と関係を切り結ぶ他者が、幸せと感じるかどうかが最終的な判断基準であって、いくらデリダであろうとフーコーであろうと、その基準より特権的な立場に立つことはできない。田崎さんの『セックスなんてこわくない』でも、暗黙裏に、射精中心主義を「遅れた」セックスのあり方だとする論調が目に付いた。
肝心なのは、回路を確保することだ。主流のあり方とはべつのあり方を構想することによって、現状を生きる場所とすることができない人が、脱出するすき間を残しておくことだ。あるいは、自分が現状の袋小路に陥ったときに、抜け出す隘路を用意しておくことだ。そして、その僅かなすき間を選び取る生き方も等しく価値を持つのだ、と社会が包容力や抱擁力を身につけることができるよう、支援することだ。他者の奇妙な生き方を抱きしめる可能性と根拠を提供することだ。
人文系の学問は、社会の抱擁力を鍛えるためにあると思う。別の言い方をすれば、言葉にできない経験に言葉を与え、不安を引き起こす異物と共生するための物語を用意しておくためにあるのだと思う。人文系の学問は、他者と共生するための可能性を提供するが、わたしの生き方のあるべき姿は確実に提供しないし、してはならない。現状とは異なったあり方が進歩的だという価値観を暗黙裏に強制するとき、学問は凶器となる。それをわたしは社会学的暴力と呼んでいる。



