エロスの東京/新宿

2007/7/10, 3:44 by Gen

 Economistの都市レポートを紹介してきたわけですが、そこには何かが欠けている、と強く感じた。わたしたちが都市に一番期待しているものが欠けていた。そう、物語が。いや、正しくは、妄想が。この世の中を語る(=因果関係の説明を占有せんとする)とき、つねに2つの力がせめぎ合っている、とわたしは思う。

 一方には、公正さへと世界を開く語りがある。学問やジャーナリズムは「正しさ」にこだわり、世界をよりフェアなものにしようと企んでいる。だが、それだけでは、物足りない。何かが満たされない。世界はもう一つの語りを必要としている。妄想の深みへと世界をいざなう語りを。エロスの身体を剥き出しにする語りを。トンデモと科学の区別が意味を失う地平にて。正しさや公正さなんて糞食らえ。小説でもアートでも、フロイト的な精神世界でも良い。志賀直哉ではなく三島由紀夫が、カントではなくニーチェが、そしてルーベンスではなく岡本太郎が必要とされるとき、都市はもうひとつの姿をあらわす。わたしたちは東京を奔放に語る、中沢新一を必要としている。

black and white

 地下鉄の座席に座って、何食わぬ顔で本を読んでいるようなフリをしながら、ぼくはほとんど性的な興奮に震えている。自分の肉体の一部が、他の存在の肉体の一部に、じかに触れてまわりからやさしく締め付けられているような感覚だ。そう、いまぼくは地下を走るチューブの中にいて、その周りでは地球の熱い血液が脈打っているのである。

 地下鉄は存在自体がエロチックだ。地上にいて、足下を地下鉄が走り抜けていくのを伝える振動を感じるたびに、ぼくには東京が性的な快感にふるえているように思える。道路脇の排気口から、ときどき熱い吐息が吐き出される。その吐息は、路上を歩くたくさんのマリリン・モンローたちのスカートの奥に吹き込まれて、彼女たちの大腿に地下の秘め事の余韻を伝えていく。東京はすばらしい性的な身体をしている。(『アースダイバー』中沢新一)

 都市が都市として語られるとき、この種の妄想力が求められている。もちろん村上春樹的な「やみくろ」の妄想でも良い。とにかく、ジャーナリズムや学問が語る都市はあくまで骨なのであって、骨にまとわりつく肉体は、物語、いや妄想によってふくよかに描かれる必要がある。だから都市の姿は一様ではありえない。妄想こそが世界を豊かに彩る。

 彼は縄文時代の東京の地図を片手に、東京を彷徨する。縄文時代の地形や精神性が、現在の東京に色濃く影響を与えていることを妄想する。縄文時代の地図をもって現代の東京を逆照射せんとする。縄文海進期にも陸地だった洪積層を黄土色、海になっていた沖積層を青色に塗りわけ、その上に考古学上の遺跡や古墳・神社・寺院等の位置を重ねてゆく。

 縄文時代の東京は、海と陸が複雑な入れ子状になっていた。縄文人は陸の先端(海との境目)である岬を、聖なる場所と感じていた。現在も残っている神社や寺は、過去の聖なる場所――縄文地図上の海に突き出た岬や半島の突端――と奇妙に一致している。だから現在の東京は、地形の変化と結びついた縄文人の聖的な思考の影響を、今なお受け継いでいるという。

 彼の新宿――ないし歌舞伎町――にまつわる妄想は抜群に面白い。縄文時代に湿地であったところはエロスや物質性や肉体と、乾地であったところは精神性や神と結びつく。

 新宿は乾いた土地と湿った土地が、絶妙なバランスで、入れ子になっている。そのために新宿を歩いていると、資本主義の「乾いた部分」と「湿った部分」に、適度なリズムでふれあっていくことになるので、ここは銀座や渋谷などに比べても、盛り場自体がダイナミックなつくりをしている。大人っぽさと子供っぽさと上品さと下品さが、ここではひとつに溶け合っているのだ。

 資本主義は「乾いた」面と「湿った」面との、二面性を持っている。そのことは、まず貨幣に象徴的に現れている。貨幣はものの価値を数量で表す精神的な面と、その価値を印刷したりすり込んだりしたお札やコインの持つ物質的な面との、二面性をもっている。貨幣の上で、精神的なものと物質的なもの、神につながる要素(乾いた面)と物質や肉体につながる要素(湿った面)とが、ひとつに結合しているのである。

 そういう貨幣の上で交換されて動いていく商品もまた、同じタイプの二面性を持っている。商品にも、「乾いた商品」と「湿った商品」との、二種類があるのだ。高台の乾燥地にある伊勢丹や高島屋やバーニーズのような高級デパートにある商品は、デザインと素材の美しさで、キラキラ輝いている。「乾いた」精神的な商品にあふれている。

 ところが、同じ新宿の地続きでも、湿地帯の上につくられた盛り場である歌舞伎町で「売られている」商品は、ぐっと「湿っている」。肉体に直接的な快楽を与えるソドム的な商品が、そこでは売られているのだが、そうした商品は体液や粘液や乳液にまみれて、文字通り「湿っている」からである。それに、歌舞伎町に溢れているデザインも色彩も、お世辞にも上品とは言えない。感覚に生に訴えかけてくる、直接的で悪趣味なもののほうが、ここにはふさわしい。

 (中略)縄文時代になって、はじめて人間は、蛇や魚のような、湿地帯や水中の生き物を、土器に描くようになった。蛙や蛇やミズチの姿が、魅力たっぷりの女性の肉体と組み合わされて、表現されるようになるのだ。涙や体液にも関心が払われるようになった。粘液にまみれる性行為や、文字どおり母親の胎内の水の中から子供が生まれてくる出産の様子にも注目が集まって、それをそのまま縄文土器の表面に描いたりした。

 縄文文化というのは、とことん「湿った文化」なのである。これにたいして、高い温度で薄手の土器を焼き上げる弥生の文化は、あきらかに「乾いた文化」をあらわしている。弥生的な文化は、蛇や蛙を嫌う。湿地帯に住むことを好まない。「乾いたもの」に高い価値を与え、精神的に鈍化されたものを評価して、「湿った」肉体的なもの・エロチックなものを見下す傾向がある。

 新宿という盛り場のおもしろさは、そこに弥生的な乾燥性の商品文化と、縄文的な湿地性の商品文化とが一体になって、ダイナミックな全体を作り出しているところにある。新宿とは、日本列島に生きてきた人間たちの歴史そのものを、凝縮した街だということが見えてくる。伊勢丹から歌舞伎町へ向かって靖国通りを横断していくとき、ぼくたちは日本史を横断しているのである。(『アースダイバー』中沢新一)


縄文時代の新宿の地図。伊勢丹やバーニーズは陸地(高台)であり、歌舞伎町は海に沈んでいたことがよくわかる。


縄文時代の東京全体の地図。青山や表参道は高台だった。他方、渋谷は見事に海の底に沈んでいた。いまの渋谷の猥雑な姿を想うとき、何かがむくむくと妄想されてくるだろう。1


  1. それにしても、Amazonのレヴュー欄で、この本は「トンデモ」であると得意げに叩くことほど虚しい行為はないだろう。包容力の貧困さをまず恥じるべきだと思う。公正さ、正しさとは無関係に、妄想の重層的な奥行きが世界の豊穣さを支える一因であることを忘れちゃあいけない。この本はすぐれて「中沢新一の」東京の歩き方の本なのである。 [back]
Tags 社会(学), 歴史/宗教 | | 8,974 Views | add to hatena hatena.comment 0 user add to del.icio.us 0 user add to livedoor.clip 0 user |  http://blog.genxx.com/wp-trackback.php?p=216
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