よい映画批評とは
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よい映画批評とはなにか。批評対象となる映画が独自になしえている、その映画でなければ表現できなかったと批評家自身が感じるところを、批評家独自の感性によって解体再構成し、結果として読者に作品の追体験を迫る批評。そんな批評が好きだ。昨日の記事は批評ではないのだが、あれがもし批評だとしたら、最悪の部類にすら入らない。ああいう「作品固有のおへそ」を無視した一般抽象化は、批評がもっとも避けねばならないことだ。
映画はそれ自体では光と音の配列だ。観客の「わかる」経験を通じてはじめて映画となる。したがって同じ映画はこの世にふたつと無い。映画の批評は、観客の「わかる」経験に暴力的に侵入せんとする。この世でたった一つの映画を、書き換えんとする。だから批評とは、あるいみ映画を創造することだ。
そうであるからこそ批評家には、その映画でなければ表現できなかったと彼自身が感じるところに、拘泥しつづけてほしい。そこにはじまりそこに還ってきて欲しい。ポストモダン?ジジェク?脱構築?身体論?ルーマン?――道具はいくつでもある。語りの「キット」は過保護なまでに用意されている。ならばそんなものはどうでもよい。それよりは、「語らずにはいられない何ものか」が批評家の中で暴れているかどうかが重要だ。作品に恋しているかどうかが肝心だ。
小林秀雄の批評スタイルは誰にでも真似できる。恋はだれでもするのだから、ではない。現実に恋をしたことがなくたって恋愛小説は書ける。しかし、肝心なのは批評することではなく、現実に恋することのほうだ。そして小林秀雄が生み出した批評のスタイルとは、「肝心なのは批評することではなく、現実に恋することのほうだ」という言葉を、しれっとした顔で書いてみせるということだった。(引用元:遊星から落ちてきた「X」の悲劇)
良いではないか。とことん、「しれっとした顔」で書いてみせてほしい。「しれっとした顔」で、愛し恋せるけど信じることはできない、その恥を告白して欲しい。
おまえ批評家になれよ/なあ批評家になれよ/おまえ程人を愛する人間はいないからな/だけどおまえは人を救えないぞ/おまえは死ぬほど人を愛するけど/人を信じちゃいないからな/だからおまえの文章では人を救えないんだ/批評家になれよ/おまえの見る目は正しい!何もかも正論だ!/だけどおまえは何も信じちゃいないからな/どんなに内部を掘り下げてリッパな評論を打ちたてようと/おまえの文章で人の頭は動かせるが/人を変えることはできないだろう(引用元:遊星から落ちてきた「X」の悲劇)



