全体性と個別性の戦いがドラマを生む
久々に映画の話を。そういえば、この前DVDで『ナイロビの蜂』(あらすじはリンク先参照)を観た。鋭いカメラワークと(”L.A. confidential”に似た)味わい深いサスペンスの物語筋が印象的な、快作だった。比較的おすすめ。76点。もちろん、映画なので、ドラマティックな物語を展開する必要がある。そこでこの映画の脚本家は、おなじみの「ある仕掛け」を施した。
「ある仕掛け」とは、<全体の整合性 vs 個人の1回きりの人生(物語)>という筋立てだ。1人きりの例外を許してしまえばルール(全体の整合性)が崩れてしまう。ルールと個別性はしばしば対立する。悩み苦しんでいるあなたに手をさしのべたいのだが、私の立場から、それはできない、というお話だ。この<全体の整合性 vs 個人の1回きりの人生(物語)>というプロットは、ドラマを生む豊かな源泉になっている。あまりに多くのドラマが、この対立から生まれてきた。
例外を認めないのは全体を守るためだ。たとえば、法律。わたしたちはしばしば「こんなにひどい犯罪を犯したのにたったこれだけの刑期?やっぱ裁判官は現実を知らないお役所的なキチガイばっかなんじゃねーの?」と思ったりするが、裁判官は被告人の具体的な犯罪と向き合うと同時に、法体系の整合性とも向き合っている。法体系の整合性に配慮した場合、被告人の扱いは――社会通念からみて――甘くなってしまうこともある。そしてそれがドラマを生む。新聞が煽り、世論がわっと動き出す。インターネットに被害者のためのサイトが立ち上がる。物語はすでにはじまっている。
たとえば、旅人。目の前で可愛い子供がお金を恵んでくれと要求してくる。もちろん裕福な日本国民がお札を1枚手渡したところで金銭的な痛手はない。だが、「ここで俺が金を恵むと、あとからこの地に来る旅行者すべてに迷惑をかけることになる。断固とした態度を取らなきゃ」と彼はふと立ち止まるだろう。甘美な苦しみを胸に抱えながら。
<全体の整合性 vs 個人の1回きりの人生(物語)>という戦いの中で、映画や小説は、かなりの場合「個人の1回きりの人生(物語)」に味方する。なぜなら多くの映画は個人の人生を追うあらすじになっているからだ。全体の整合性を守るためにお役所的に働いた男を賞賛する映画など観たことがない――他方で、個別性に味方し、ナチスからユダヤ人を「個人の裁量で」救ったとされる男は賞賛される(『シンドラーのリスト』)。
このBlogでは何回も思考には2様式――論理的思考モードと物語的思考モード――あることを書いてきた(参照)。全体の整合性を守ることの偉大さを実感するためには、論理的思考モードを働かせる必要がある。他方、個別性を重視することの大切さを実感するためには、物語的思考モードを働かせるだけでよい。つまり認知的にも、「グッとくる」のは個別性にまつわるお話なのだ。全体の整合性を忘れ例外を許してしまうことは「とてつもない快感」なのだ。これも映画や小説が個別性を愛する理由の一つだ。
全体性と個別性どちらを重視することが正しいのか?という問いに意味はない。なぜなら、最終的には、両方に配慮したバランスの取り方の問題に行き着くからだ。答えはケースバイケースだし、どちらか片方が正しいということはなく、よりベターな解答はつねに中庸に宿る。というより、正しい答えがないからこそドラマになるのだ。
映画や小説は、「快感プロット」と自分が名付けている、いくつかの対立軸を巧みに操作することによって、ドラマ――身体的にグッとくる話=快感=物語的思考モードの愛撫――を生む。<個別性←→全体性>軸の他にもおなじみ対立軸がたくさんある。この対立軸を探すのも、クールでシニカルな映画の楽しみ方のひとつだ。映画って、ほんっとに素晴らしいものですね!



