まなざされたとき
同性愛を気持ち悪いと思いますか?、とリポーターが尋ねてくる。いや、全くそんなことはない、むしろ法的にもっと権利を認めるべきだと思いますよ、と答える。自称リベラルな誰かさんにはお馴染みの場面だろう。自分もそう答えるだろう。実際この文章を書いている今もそう思っている。
今晩何時にバイト終わるの?何か買って欲しいものない?おいしいもの食べたくない?立派なホテルに部屋取ってあるから来ない?と、あるムチムチな男は店員に喋りかけた。必死なまなざしが焦点を求め彷徨っていた。まぁ、焦点の先、その店員は自分だった。気持ち悪かった。鳥肌が立った。激しい嫌悪感がせり上げた。
まなざされたとき。対象としてロックオンされたとき。他ならぬ自分が生身として対象化されたとき。この瞬間の特別性。あぁ、これがいわゆる「アクチュアリティ」なんだよなぁ。
以前書いた。思考には二様式ある。論理的思考モードと、物語的思考モード。2つのチャネルが同時稼働するのが人間の常ってもんよ。同時稼働し、相補的な、二つの思考モード。物語的(感情的)思考モードからは嫌悪感。論理的思考モードからは「公正たれ」という囁きが。――2つのモードが同時稼働するのが人間の常ってもんよ。「心の底から○○と思わなきゃ」みたいな強迫観念は止めた方がよい。あるいは、誰か他の人に「心の底から○○と思え」と迫る権利もおそらくないのだろう。実際のアウトプット(行動)で評価しな。
分裂するのが人間の常ってもんよ。どっちも「本当の」自分。科学的に見ても。心にはふたつの回路があるんだから。等しく真剣な分裂を、おろおろと、管理する人間。そんな人間像が一番しっくりくる。人間は手綱を引くことしかできない。手綱を引く意志があるならば、きっとそいつは「理知的」な人間なんだろう。



