人が「立法者」になるとき

2006/12/1, 21:08 by Gen

 J=ピアジェという偉大なスイスの児童心理学者がいた。彼の素晴らしいところは、一流の実証実験もさることながら、実験結果から一流の社会科学的洞察を導き出したところだ。そんな前書きは別に良いのだが、彼は「大人は真の意味で道徳を子供に教えることはできない」と主張した。何か社会的事件が起きる度に「親の育て方・家庭環境が悪い」系の議論が出てくるのだが、いつも、ピアジェの議論が頭をよぎる。 子供の道徳が成長に従って進化していくことを彼は示した。要点だけ抜き出せば、子供の道徳は、「拘束の道徳」から「協同の道徳」へと進化するのだ。「拘束の道徳」段階にある子供は、規則を絶対的なもの、修正不可能なものと見なす(「道徳実在観」)。この段階では、善悪は規則に対する服従・不服従と同一視される。道徳は義務となる(「義務と他律」)。また、責任に関しては、行為の動機ではなく行為の結果が重視される。

 対照的に、「協同の道徳」段階にある子供は、規則を彼らを離れて存在する実体的・絶対的なものとは見なさず、合意に基づくものと考える。教えられた規則に対する忠誠ではなく、規則の制定と革新の方法についての合意が重視される。<内容に対する忠誠から方法への合意へ>。「事実状態」と「権利状態」が区別され(「善と自律」)、いまある状態が絶対視されず、合意さえあれば現在の状態をより良いものへと変革しようとしはじめる。典型的には「遊び」の場面において。

 では、なぜ「拘束の道徳」から「協同の道徳」へのシフトが生じるのか。それは子供が経験する社会関係が変化するからだ。子供と親の間では(偉大な親/学ぶべき子供という)「一方的尊敬」が育まれるが、同年代の仲間と遊ぶようになると「相互的尊敬」が育まれる。同年代の仲間たちとの間で、「相互的尊敬」すなわち「自分がして欲しいと思うように他人にもするという相互性の原則」が育まれると、子供たちは規則の実体視を止め相互性の規範に従う「立法者」になるのだという。

 このように、真の道徳とは内容に対する忠誠ではなく方法への合意であり、親であれ教師であれ「一方的尊敬」の上下関係にある者は善と自律を教えることができず、それは「相互的尊敬」の関係性の中で育まれるほかない、とピアジェは言う。たしかに、「方法への合意という規範を絶対的なものにすることは許されるの?」とか、「左翼必死だな(笑)」とか言われそうな筋の議論ではあるが、それでも、折に触れて立ち返るべき論考であるとは思う。内容そのものの妥当性についての判断を留保して、方法についての合意を研ぎ澄ますやり口は学問の世界でも良くあるのだが、それでも、「人が立法者になる」とは確かにそのようなことであるのだし。

Tags 法/政治 | | 1,893 Views | add to hatena hatena.comment 0 user add to del.icio.us 0 user add to livedoor.clip 0 user |  http://blog.genxx.com/wp-trackback.php?p=155
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