美が善を代用する

2006/11/25, 21:02 by Gen

 久しぶりに書いてみます‥。九鬼周造『「いき」の構造』を読んでいて改めて思った。安倍晋三のワンフレーズ、「美しい国、日本」って、美が善を代用するという日本の伝統的な価値観に根ざしたものだったんあだなぁ、と。西洋キリスト社会のような超越的道徳価値規準に揉まれてこなかった日本社会では、規範の拘束力を、美しさ/「粋」/わびさびといった美的基準に求めてきた。 善いか悪いかではなく、美しいか醜いか、粋か野暮か、洗練されているか否かが、他者に評価を下す際の倫理的基準となってきた。その延長線上に、現代の、「イケてる」という言葉が成立しているのだろう。「イケてる」という感覚は、「美しい」「粋だねぇ」の現代版にほかならない。何世代か後の日本では、至極真面目に「イケてる国、日本」というフレーズが囁かれているかもしれない。

 ところで、九鬼周造は「粋」を次のようなものだと見なした。第1に媚態。第2に意気すなわち意気地。第3に諦め。つまり、なまめかしく相手に多くを委ねる(媚態)が、自分の中に凛としたものを持ち相手に媚びすぎない(意気)、そしていざとなればあっさりと諦める潔さ(諦め)だ。このように、「粋」という概念の中核には「自制的禁欲」が存在している。神の前で己を戒めるのではなく、美しさの前に自己を恥じる。自己を恥じる→自分の欲望をコントロールする→意気→粋だねぇ、というわけだ。

 つまり日本では、西欧社会のように神を前にして言葉と論理と(何よりも)理性によって己をコントロールするのではなく、自分自身の感性に基づき、多くを語らず、自身の欲望を制御する姿が美しいとされるのだ。安倍晋三が意図した「美しい国、日本」の要点もその辺りにあったのだろう。

 この政治の芸術化(政治の美学化)を批判するのは容易い。言葉と論理による討議に基づきコンセンサスを形成するのが民主主義の要点なのだから‥‥美しさという価値基準は集団に広く普及している信念(集合信念)が育んだ感情的なものであり、論理による討議のプロセスを省略すれば、凡庸な大衆による集団的抑圧の正当化につながりかねない‥云々‥、と。たしかにこれらの批判は正しいのだろう。でも、やはり、わたしたちは、少なくとも自分は、美しいかどうかを最大限に重視してしまうし、安倍晋三のフレーズに少しはグッときてしまうのだ。美が善を代用する社会に育まれてきたのだから。言葉でがやがや騒ぎ立てれば立てるほど、「粋」でなくなるし、「美」からも離れていってしまうのだ。

 思うに、2ch等で左翼的言説が嫌われるのは、「美が善を代用する社会・日本」と深く関係があるのだろう。左翼は(西洋風に)言葉と論理に基づき自己の権利をがやがやと主張するのに対し、右翼は、「黙して」国を「愛する」ことを訴えかけるのだ。端的に言って、左翼的言説は「美しく」ないのだ。平和が「善」の構造を持つとすれば、愛国は「美」の構造を有しているのだ。

 良くも悪くも、日本の「美」は、誇示的に自己を抑制する姿勢の中に存在する。現代資本主義社会が、誇示的消費をその特質として持つとすれば、日本の「美」は、希有な存在ではある。その日本的「美」から自分が何を引き出せるのか、一度じっくりと考えてみようと思う。

Tags 社会(学), アート(音楽/映画/写真その他) | | 3,480 Views | add to hatena hatena.comment 1 users add to del.icio.us 0 user add to livedoor.clip 0 user |  http://blog.genxx.com/wp-trackback.php?p=153
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