Arvo Partの『アルボス<樹>』
07:19:32
”私の音楽は白光に例えることができる。あらゆる色を含んでいるが、その色はプリズムを通したときにのみ現れる。私の音楽におけるプリズムとは、聴く人の精神に他ならない”(Arvo Part)
07:06:15
”祈りのかたちで書くこと” (フランツ・カフカ)
06:35:41
「距離とは心の美である」。こう書いたシモーヌ・ヴェイユは、またこうも言うことができた、「心の治療に薬を選ぶことはできない。それはひとつしかない。そのたったひとつの薬とは、単調さに耐えうるということである。そしてそれは永遠の反映、すなわち美なのである」。
謙譲なくしてはだれもこの美にあずかることはできない。アルヴォ・ペルトは謙譲を人間のいちばん深い力とみなしている。彼が、反抗するもの、また革命家を「無力」と呼んだのにも理由がないわけではない。――彼らはじっとしていることができず、動きまわらずにいられず、敵と見なすひとびとを迫害し、その結果彼らは少しでも敵だと思ったものすべてを相手にせざるをえなくなる。それは政治上の革命家にあてはまるだけではない。
「音楽によるいかなる過剰なドラマ化も、究極には一種の革命となる。もしそうならそれは――あらゆる革命と同じように――無力の表明以外のなにものでもなかろう。受難を主題とする作品に接すると、なによりもまず謙譲の精神にわたしの心は打たれる‥」(アルヴォ・ペルト『ヨハネ受難曲のためのノート』)。美は、ゲーテが言ったように、不安の娘なだけではない、それ以上に謙譲の娘でもある。
ソ連に生まれたArvo Partの『アルボス<樹>』ライナーノーツより引用。自分がキリスト教を考えるとき、どうしてもその機能(宗教は社会のなかでどのような役割を果たしているのか)から考えてしまうが、アルヴォ・ペルトの音を聴くと、ふと、かすかではあるが、キリスト教世界観の一端が垣間見える気がする。人間の無力、そしてその無力は謙譲を引き出し、謙譲は美と永遠につながる、ということが。



