愛知万博

2005/5/26, 15:39 by Gen

22:29:15
 知人が万博に行ってきたそうな。「ゴンドラを通す部分だけ木がばっさり切られていて皮肉を感じた」みたいなコトを言っていたが、今回の愛・地球博は、何よりも、コンセプト(思想)の不完全さが勿体ない。歴史的に万博は、科学技術によって自然を支配すること、およびその科学技術を生み出した国力を誇示する場であった。だから「愛・地球博」など、皮肉以外の何者でもないのだが、ひとつの重大な転換を(日本が)示すチャンスでもあったのだ。自然の「支配」が現代の諸状況にそぐわないとしたら、どのような試みがありうるのだろう。

 「環境」「自然」とは、手つかずのままの(野生の)natureではあり得ない。田舎の山林に行ってみればわかるように、昔から、「自然」とは人間が創り出す一つの価値だった。放置しておけば草木がぼーぼーに伸びて、立ち入ることすらできない。人間は手を加え、自然という価値を生み出し、維持してきた。つまり、人間が何らかの技術にもとづき野生のnatureに手を加えてはじめて、わたしたちが想像するような「自然」が生み出されたのだ。手つかず自然など、「樹海」に他ならない。人間と野生のnatureが調停を切り結ぶ均衡点(=「自然」)が推移してきただけだ。

 もし自分が万博のキュレーターならば、「人間が諸技術を用いた介入によって『自然』(というひとつの価値)を生み出してきた」歴史を徹底的に描き出す。そこに露骨な価値判断は差し挟まないし、ましてや「愛・地球」などと恥ずかしいフレーズもつけない。オゾン層を破壊するフロンガスは必ずしも常に「悪」というわけではない。フロンガスが生み出された時代背景を考慮すれば、フロンガスの開発は必然性と切実さを伴っていた。フロンガスの開発は、その時代にあっては、「愛・地球」の営み、すなわち「自然」という価値を創造するひとつの営みであったと思うのだ。

 無駄な価値判断は挟まずに、歴史的な、技術による「自然」という価値の創造現場を徹底的に標本のごとく羅列する。そして、各技術がもたらした帰結も横に展示する。(現代の価値基準からして)「善い」ものも「悪い」ものも含めて。その上で、現代社会における「愛・地球」とはいかなる試みでありうるのか、来場者に問えば良かった。もっとも、それでは人が集まらない――華やかなスペクタクルのないイベントには誰も来ない、投資した資金が回収できない――ので、どだいそんな試みは不可能なのだが。とすれば、やはり「万博」という構造の元で「愛・地球」などという思想的実現を試みること自体が、原理的に不可能だったのかもしれない。ちなみに、万博は歴史的に「商品の祝祭」だったという側面も併せ持つ。すなわち世界中の珍品を楽しむ場だった。だから、「韓国館でヨン様のレアなうちわに群がる主婦」がいたとしても、まさに「それが万博なのだよ」、という気もするのだ。

 それでもモリゾーは好き。

Tags 歴史/宗教, 日々のよしなしごと | | 2,316 Views | add to hatena hatena.comment 0 user add to del.icio.us 0 user add to livedoor.clip 0 user |  http://blog.genxx.com/wp-trackback.php?p=112
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