いくつかの美しき断章
04:31:00
大好きな断章シリーズ第6弾。『バルト:テクストの快楽』より。
バルトはテクストに身体性を与えようとした。それは彼のまなざしや、手や、喉を通る声と切り離すことができない。何よりも書くことが、そして読むことが、バルトにとっては快楽だったのだ。だから彼は批評家や研究者のように系統立った読書に打ち込んだりはしないし、大部の書物を競いたって書いたりはしない。気ままな散策者のような好きなものを読む一読者であることを大切にしたのである。
それゆえ、テクストの快楽は性的な快楽と結ばれる。バルトは快楽と悦楽という分類をする。快楽は知ることが出来るが、悦楽は知ることが出来ない。悦楽は快楽の彼岸である。バタイユが語る性愛の頂点における死の体験に似ているが、快楽の主体はこの自分から切り離された悦楽を「欠如」(ラカン)として認識することによって、その欠如にむけての漂流を開始するのである。
04:11:17
大好きな断章シリーズ第5弾。自分、去年の5月。
元カノってなんであんなに横暴になれるもんなんだ?見かけ上「貸し」と「借り」の均衡システムでこの世の中は動いてんだからさ。与えずして求めるなら、謙虚さという緩衝材を身にまとえ。エロスの枯渇した地平に飛躍的な関係は結ばれ得ないんだよ。
04:09:47
大好きな断章シリーズ第4弾。Pierre Klossowski、『ルサンブランス』より。
私は「作家」でも「思想家」でも「哲学者」でもない――どんな表現様式においてであれ――そのうちのどれでもありはしない、かつても、今も、そしてこれからも一人の偏執狂であるというそのことに先立っては。
04:04:40
大好きな断章シリーズ第2弾。Claude Lévi-Strauss『悲しき熱帯』より。
数百年後に、この同じ場所で、他の一人の旅人が、私が見ることができたはずの、だが私には見えなかったものが消滅してしまったことを、私と同じように絶望して嘆き悲しむことであろう。
04:00:58
大好きな断章シリーズ第1弾。川端康成『新文章読本』より。
言葉は人間に個性を与えたが、同時に個性をうばった。一つの言葉が他人に理解されることで、複雑な生活様式を与えられたであろうが、文化を得た代わりに、真実は失ったかも知れない。言葉の理解は人と人との契約による。言葉を表現の媒材とする小説は、故に『契約芸術』の哀しい宿命を持たされているともいえようか。いかように表現様式を確信しても、言語や文字ではついに完全な自由な表現を得ずに制約されている人間が、束縛者である文字や言語に対して、自由と解放を求めて拮抗してきた歴史が、文学上の新境地の開拓の歴史であったということも出来よう。



