「信じる」ことの欺瞞

2005/5/19, 16:00 by Gen

07:07:59
 ねぼけまなこをこすると、そこは真っ白だった。東京今年雪見たのはじめてかも。昨晩の氷雨が薄雪に変わってた。ところで、「信じる」って行為はある意味傲慢さを含むってことに、気づいてない人が多すぎて辟易する。「信じる」ってことは、自分の責任を放棄して相手に丸投げするという意味が強い。いわば、自分が相手を監視する責任を放棄して相手に頼るわけだ。そのくせ、自分の求めていた結果が得られないと、「裏切られた」とかなんとかいって逆上しはじめるからタチが悪い。

 信じるという楽な手段に逃げ込む前に、おまえが他にできることはなかったのか?おまえは丸投げしておいて相手をただ非難できるのか?――もっともインドへ行ったことのある身としては、「信じる」ことのできる相手・状況が限定されている環境はいかに辛くしんどく切ないか‥ということはわかっているつもりだけれど。それでも安易に「信じる」なんて言うべきでも頼るべきでもない。信じるならば、信じただけの覚悟を持て。結果がどうなろうと自分が引き受けるだけの強さと矜持を持て。自分を棚上げにして相手を非難するな。

03:35:31
 「信じるって怪しい言葉ですよ」とコメント頂きました。どうもです。「信じる」ってのを記述的に定義はできないでしょうねぇ。パフォーマティヴ(行為遂行的)に捉えた方がよい。以下の引用は浜本さんトコより。

 でも使用法の違いで見ると、この二つの言葉の違いは一目瞭然だ。「私は~と信じている」という場合と「私は~と知っている」という場合。前者では、私は「~」という命題に対して異論が存在することを知っている。それに反対している人がいることは知っている。けれどもそのうえで、私は「~」を真だと受け入れることを決めた、それが真であるという前提でものを考え行動していくことにしたい、とそう表明しているのである。それに対して「~と知っている」という場合は、私が思考や行動の前提として採用している「~」について異論が存在する可能性を私はそもそも想定すらしていない。

 人を目的語にするにせよ、命題を目的語にするにせよ、「信じている」と述べることは、それらを自らの推論と行動の前提として採用すると宣言することだ。完全な根拠があるわけでもなく、異論の余地があることを認めたうえで、なおかつそれを前提として採用するという宣言である。半信半疑というのは、けっして、本当に信じきっていることと微妙に区別できるなんらかの心的状態を指しているわけではない。その帰結を引き受ける用意がまだできていない、その宣言ができかねているという未決の事態を指しているだけのことである。

 つまり「信じる」とは何よりもまず決意表明であるのに、自分で決意したってことに無自覚な人が多すぎるってこった。それでも考えてみればわかるように、「信じてもらえる」ってのは時としてありがたいことだ。「信用資本」ってヤツですな。お互いがお互いを利するような関係性では、「信じる」という決意に双方が利益を得るべく寄生しているわけだ。本当にムカツクのは、一方的に相手に信じられる行為。こっちに信じてもらうメリットが無いときに信じられると、ブチキレそうになる。ほっといてくれまへんか。

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