統計という思想

2005/5/11, 15:51 by Gen

20:20:04
確率とか統計ってあらためて凄いなと感じるわけですよ。ちなみに確率の本質的意味は、ルーズな基準を許すこと。ある命題を<真/偽>で判断する場合、どちらかに振り分けなければいけない。でも確率ならば、真から偽までのグラデーションの曖昧さを許可することになる。どちらともいえない命題が許可される。これは画期的なこと。いいかえれば、結論に対して寛容だということ。(お天気予報をあまり恨まないでしょ?)

で、その根源には、イギリスの哲学家・ヒュームの懐疑論がある。彼は「帰納法」を疑った。いろいろな具体例から法則(ひとつの命題)を導き出すのが帰納法ですが、なぜそれが許されるのか?と彼は問うた。今までエメラルドが青だったからといって、今後出てくるエメラルドが青とは限らない(それを見ることはできないのだから)。つまり、彼は、前提にない強いことを一歩踏み出して結論することに警戒心を抱いた。

<真/偽>の考え方は、懐疑論を排除してしまう。でも確率の考え方は、懐疑論を引き受けた上でそれと戯れる。<正しい/正しくない>や<善/悪>ではなく、「正しい」から「正しくない」までのグラデーションを柔軟に引き受けるわけだ。

で、考えたのは、言語の貧困さ。高校の時の担任――彼は京大院でカントを研究し飽きて高校教師になったのだが――は口癖のように自分にこう言った。君は「である」という言葉をよく用いるが、確実でないことには「だろう」を使わなきゃダメだ。言葉への配慮が足りないな、と。その後、自分の書く文章は「であろう」で埋め尽くされた。だって何事も断言などできないのだから。それはそれは醜い文章だった。でも、「である」か「であろう」しか無い日本語はなんと窮屈なのだろう。もうすこし確率的な語彙はないものか。たとえば32%の自信があるならば、「で32あろう」のように。とにかく、「である」か「であろう」の二分法を迫られるのは、うっとうしくて仕方ない。英語の「perhapsは50%」なんてバカ予備校講師が教えていたものだが、言語はなぜ、確率的曖昧さを排除してしまうのだろう。

もちろん理由がある。確率を追求していくと、無限後退に陥るからだ。つまり、1%をさらに細かく分解すると0.1%になるし、さらに0.01→0.001→0.0001‥。どこかで区切りをつけないと、前に進めない。これがかの有名な「ウサギはカメを追い越せない」というゼノンのパラドクスだ。どこかに恣意的な区分が必要だ。そうしないと前に進めない。兎は亀を追い越せない。日本は停滞してしまう。<わたし>も社会に取り残される(もっとも、哲学者が社会から浮いているのにはこういう理由があるわけだ)。でも、とにかく、言葉はあまりに窮屈なのだ。息苦しいのだ。羽ばたけない87だろう。

01:33:14
昨日のはなしの続き。だから、「説明」とは、誤差の許容範囲を作り、その中で対象を類型化・単純化(法則化)することで、すべてのものを反復可能なものとして把握しようとするものである、と定義できる。「誤差の許容範囲」とは、いいかえれば集合のことだ。ないし、概念といいかえても良いだろう。まずは集合ありき。第1に概念ありき。ひとつめの集合はえいっと仮定する。その上にお城を築き上げる。ねぇ、だって。「1の次は2だ」なんてなぜ疑いもなく思えるのでしょう。1の次は1.1、1.11、1.111、1.1111‥。なぜわたしたちは2にたどり着くことができるのか。

でもこれはあくまで、「説明」のはなし。「記述」レベルでいえば、この世の中は不確実性を含まず淡々と進行している。絶対的な物理法則が存在している。でもわたしたちは、「絶対的な物理法則」を永遠に認識できない。認識の際に、かならず不確実性が混入する。そこにこそ、確率・統計の出番ですよ。つまり、確率は、物理的世界にではなくて、認識する私たちの心的世界に顔を向けている。いいかえれば、物理的事象に対してではなくて、各命題・信念という心的表象に対して確率が適用される。物理的世界は確率と無縁です。だから、「神の絶対的な摂理」なんてのもあるとは思うわけですよ。原理的に認識不可能だけど。以上、ラプラスさんの議論をお借りしつつ。ここにもラプラスの簡潔な解説があるね。少し引用しておこう。この手の議論の最先端はやっぱベイズ的認識論になるのだろう。統計学の父、ベイスさん。ベイズ的認識論は勉強中。むむずい。ねむいちん。おやすみなさい。

 コインやサイコロには表と裏とか1から6までとかの限定がある。合格率や天気予報もだいたいの幅がある。統計をとればなんとかなる。ところが、コンビニ・ケーキの中に釘が混入されている危険性はどのくらいあるかとか、明日、銀座4丁目の角で知り合いに出会う確率はどのくらいかというような問題になると、お手上げである。因果関係の幅が限定されるときの確率と、因果関係がはっきりしない確率とでは様子がちがうのだ。このちがいは「不確実性」のちがいであると考えたい。ラプラスは数学史上、初めてこの不確実性をめぐる数学に挑んだ。

 ラプラスが試みたことは、すべての予測できそうもない事象を予測することではない。そう思ってはいけない。「不確実性を扱う方法」があるということなのだ。そこがわからないと確率や統計はつかえない。

(中略) われわれはむしろ初期条件の無知から誕生していたともいうべきである。そもそもわれわれは自分が誕生してきたときのことをおぼえていないし、地球の誕生期もわからないし、ビッグバンの詳細も知ってはいない。そこで、この初期条件の無知を補充するための方法が必要になる。ラプラスはそれが「確率論的な方法」だと考えた。

Tags 科学/認知/進化/環境/身体, 思想/哲学/言語(学) | | 2,769 Views | add to hatena hatena.comment 0 user add to del.icio.us 0 user add to livedoor.clip 0 user |  http://blog.genxx.com/wp-trackback.php?p=104
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