浜本満さんの断章いくつか
02:43:30
以下の引用はすべてttp://anthropology.soc.hit-u.ac.jp/~hamamoto/lecture/2004w/nov18.htmlより。一橋の半期分の授業を定期的に勝手に消費しながらニヤニヤしてるわけですが。元ページはここttp://anthropology.soc.hit-u.ac.jp/~hamamoto/lecture/2004win.html。




02:43:30
以下の引用はすべてttp://anthropology.soc.hit-u.ac.jp/~hamamoto/lecture/2004w/nov18.htmlより。一橋の半期分の授業を定期的に勝手に消費しながらニヤニヤしてるわけですが。元ページはここttp://anthropology.soc.hit-u.ac.jp/~hamamoto/lecture/2004win.html。
23:21:43
二十世紀の進化生物学は、一方で、人種差別や自民族中心主義など、さまざまな差別の「科学的」基盤として悪用されてきた。そのような歴史を繰り返さないためには、生命科学の動きを、常に人間の問題に環流していくことが必要だ。
‥「情報」は目に見えない。「遺伝子」も、実感がもてない。自分たちの「生命」がこういったものに還元されるのかという素朴な恐怖感を、多くの人々がいだいている。問題は、「情報」や「遺伝子」と、「人間」とが途切れているところにある。両者を結びつける回路を開くことだ。「情報」や「遺伝子」の科学を、身体感覚をもった物語として語ること。そのための道具立てが、今、真剣に望まれている。(佐倉統)
その一助となるべく。
16:43:46
われわれは、思想というものはある特定の問題に対する一つの解答であることを、ともすれば忘れがちである。解答命題のみを思想とみて、その命題を生み出したところの問いを不問に付す。あるいは問いを問題にする場合でも、その問いを特定の問題状況における特定の問いとしてよりは、一般的・普遍的な問いとして捉え、この一般的・普遍的な問いにうまく答えたか否かによって、思想の優劣を判定しがちである。
最先端の思想は過去の思想に優ると考え、最先端の思想をもって過去の思想の不備をあげつらう、いわゆる現在中心主義の歴史観は、問いについてのこのような見方に起因するといってもいいだろう。ポストモダニズムをもってモダニズムの思想を一刀両断に断罪しようとする最近の風潮も現在中心主義の一例である。
問いと答えの連鎖としての思想史には終わりがない((c)Collingwood)。このことは死ぬまで忘れないでおきたい。
22:53:05
いいかげんBlogを更新しなきゃと思いつつ、テスト中読書発熱により、言葉が出てこない。吸収中は生産できない、そんな人間なのです。もう少しお許しを。そのうちまた言語的下痢症状になるとは思うんだけれども。今日のなるほどフレーズ。
古典とは無限の叡智を収めた図書館であるよりもむしろ、さまざまな方向からやって来ては多様な方向へと流れていく、無数の議論の結節点ないし交差点のようなものである。それゆえに、議論の方向が異なれば同じ古典的理論家も相異なる相貌を呈することになる。
実在、および「○○とは何か」「○○を成立させている条件(原因)は何か」と問うことを徹底的に拒み続けたルーマンの思想。社会学だけではなく、法学/哲学をやる上でも絶対に読むべし。素晴らしい。
02:11:34
今日のひとこと。――「知るとは包み込むことである。その結果、より孤独になることである」。と思い浮かんだ。概念は多くのものを包含する。たとえば「存在」の一言で数知れぬ事象を捉えることができる。しかし、考える行為は、知る営みは、あるいは<知>は、孤独を必ず自分に突きつける。だからわたしは「知の共有」などというもっともらしい言葉を根源的なレベルでは全く信用しない。考える行為は、かならず他者から自分を切り離す。なにも血液型性格論で盛り上がってる飲みの場で物憂くなってしまうということだけではない。他者に接続され違和感なく収まる<知>は、ほとんどがイデオロギーであろう。もちろん「イデオロギー」という語には肯定的な意味も否定的な意味も含まれているのだが。