麻生太郎の演説に遭遇した
新宿を歩いていたら、偶然にも麻生太郎の演説と遭遇したので、いろいろと観察してみた。もうすぐ出かけなければいけないので、簡単に素朴な印象を。以下、写真は全部Ricoh GX100 / Shinjyuku / Tokyo.
この人にむりやり握手されてすこし喋ったけれども、誰だっけ?中川?ネタになるので、無駄に写真を一緒に撮ってみた。(この写真の右側の男は俺じゃないw ってかこの子喜びすぎ)




新宿を歩いていたら、偶然にも麻生太郎の演説と遭遇したので、いろいろと観察してみた。もうすぐ出かけなければいけないので、簡単に素朴な印象を。以下、写真は全部Ricoh GX100 / Shinjyuku / Tokyo.
この人にむりやり握手されてすこし喋ったけれども、誰だっけ?中川?ネタになるので、無駄に写真を一緒に撮ってみた。(この写真の右側の男は俺じゃないw ってかこの子喜びすぎ)
福田と麻生、選挙演説などの動画をつぶさに見ていると、やはり麻生がリーダーとして抜き出ているなという思いを禁じ得ない。過去に福田がしていた斜に構えた皮肉発言から、福田さんのメタ言語能力(自分が他人にどう思われているか、どのようにすれば他人に自分の意志を伝えることができるかを察知する能力)は意外と優れているのでは、と期待したのだが、どうやら福田さんにはビジョンが決定的に欠落しているらしい。福田さん(のときにアイロニカルなメタ発言)は、ただその場限りの1回性のメタ発言に終始していて、彼はベタな理念や政策をほとんど持っていないのではないか。彼は名調整役ではあると思うが、リーダーの器ではない。もし福田さんが首相になったとしたら、麻生温存論を抜きにすれば、なんだかなぁといった感じだ。
それよりも、出色していると自分が感じた記事をご紹介。「新政権、本当の課題―新自由主義と新保守主義の狭間で立ち尽くした安倍ニッポン」。これまで読んだ論考の中では、一番、歴史的なパースペクティブを踏まえていると感じた。ぜひ一読を。なんでこの記事に、たいしてはてなブックマークが集まらんのかね?疑問でならない。ただし、この記事の筆者は、文章の最後の部分で、国家連合体のセーフティーネットを張った上での福祉型国家への転換を推奨しているけれども、その論拠は明確にされていないので、その点だけはご注意を。
あと、もしよければ「経済学的発想」と「反経済学的発想」という枠組みがもたらすものもあわせてどうぞ。<「経済学的発想」/「反経済学的発想」>、<「市場主義」/「反市場主義」>というふたつの対立軸に分けて政策を考える視点は、とても生産的なものだと感じますた。
Ricoh GX100 / Roppongi Midtown / Tokyo
安倍辞任とこれからの方向性について、前記事のコメント欄と一部重複するけれども、エントリ起こしてみます。支持率が低下したのはなぜか?安部元首相の人格的未熟さという理由以外に、BloombergのW・ペセックが指摘した、経済的な理由が、あまり強調されていないけれども、かなり大きかったのではないかという気がする。強調部は引用者のもの。
安倍首相が12日、辞意を表明するやいなや、評論家らはさまざまな辞任の理由を並べ立て始めた。外交手腕の弱さ、スキャンダル、閣僚の失言、何でもありだ。だが、安倍首相の破滅のもとは経済に尽きるだろう。(中略)
5年間、「日本株式会社」の改革に取り組んだ後、2006年9月に小泉氏は改革の継続を安倍氏へと託した。だが安倍首相にとって最大の過ちは、日本の景気回復を当然と考えたことだ。(中略)
安倍首相は、改革論者の起用を避けた。マスコミは政治資金問題などによる閣僚の辞任ばかりを取り上げたが、本当の問題は、戦後最も長期にわたる景気回復期において家計が疎外感を募らせたことだ。
ソース。このタイミングで辞任するのは、たしかに無責任。だが、これ以上安倍の「人格」を嘲笑したところで、何も生み出さないことに注意したい。(もっとも、安倍首相は精神的に破綻する限界を迎えていたんじゃないかという気はする)。
安倍が退陣したからといって、安倍が推進してきた政策すべてがダメだったということにはならない。たとえば憲法改正の問題はどうだろう。たとえば道州制の問題はどうだろう。それぞれのトピックを、今後どうすべきなのか、プレーンに考える必要がある。(安倍の人格的稚拙さが与えるネガティブな印象からいったん離れて、政策の方向性を議論する必要がある)
はてブにも書いたけど、安倍の「人格の」愚かさを嘲笑するような論評はおしなべてつまらんし、読むに値しない。安部を嘲ることによって、みんなカタルシスを得たいのだろうけど。安倍の「政策の」良かった点、悪かった点を、フェアに吟味するような論評が早く読みたい。何を引き継ぎ、何を変えるべきなのか。その点を深く考察している論考を追いかけていきたいし、折にふれて紹介したいと思う。自分でも時間があれば書きます。
遅ればせながら選挙雑感。ごくごく簡単に。まず、自民党の敗因についてはコンセンサスができているというessaさんの分析は、おそらくそのとおり。組織選挙主体の方法論が崩れつつある(参照1、参照2)。小泉改革によって、皮肉にも、自民党が頼っていた土建政治が機能不全に。加えて、安倍首相という政治家への人格不信も大きかった。安倍さんは「小泉改革のもっとも大事な点である「国民感情」のコントロールを軽視」してしまった(参照)。なぜかといえば、安倍首相は、「ただ一方的に自分のことを説明しているだけだから」であり、ある政策を実行する際に、「『そうは思わない』人々に対して言葉を尽くして理解してもらおうというマインドが決定的に不足している」(参照)から。民主党が積極的に票を集めた側面はきわめて薄いと思う。
個人的には、政治家の人格にそれほど関心が無く、政策ごとに判断しているので、失言とか信認とかはどーでもいいんですが、別に政治家の人格を重視することが悪いとはまったく思わない。そういう判断の仕方をする人がいてもぜんぜん不思議ではない。みんなちがう社会。平野啓一郎さんの「人間性を疑う」発言までくるとちょっとどうかなとは思うが。
たとえば、教育基本法の改正(道徳教育の法的押しつけ)は全くナンセンスだと思う。でも、自分は自民党を支持している。なぜか?その問題は、自分にとって、政治的関心のプライオリティーがそれほど高くないから。自分にとっては、経済的政策が最優先事項であり、その点で自民党の政策パッケージの方が魅力を感じるから、自民党を支持している。ただそれだけのはなし。おそらく投資をやっているから、考慮する政策の優先順位が変わった。政策ごとに選べればどれほどいいことか。
教育基本法改正のようなトンデモ案を主導する自民党を支持するなんて信じられない!みたいなことをリベラルな知人になじられたのだが、各人にはそれぞれ政策的優先順位があって、それにもとづいて判断しているはず。自民党を支持したからといって、自民党の全政策を支持したことにはならないし、安倍首相や自民党の政治家の<人格>をまるごと支持したことにもならない。そんな当たり前のことを忘れて、投票した者の<人格>を批判するのは良くない。人格至上主義はやめてくれ。
みんながバラバラの利害関心をもっている。自分の利益を極大化させるように投票を行う。それで良いじゃん。みんなのエゴを投票行為を通じてバランスさせるのが政治というシステム。だから、自分は、たとえば土建屋が既得権益ズブズブの投票を行ったり、公務員が職を守ろうと民主党を全面的に支持したとしても、批判しようとはまったく思わない。自分のエゴを通そうと振る舞うのが選挙であって、その点を忘れて批判するのは良くないよ、やっぱ。いかに社会的に美しくなくても、選挙では、各人のエゴを通す権利が保障されているのだから。まぁ、批判する(他者を説得しようとする)のは良いのだが、「わたしは○○と思うよ」という形で批判して欲しい。つまり、その批判もあくまであなたのエゴだ、ということを自覚しながら批判して欲しい。リベラルな人間は偉大だと思うが、リベラルな人間はリベラルでない人間に対して極端に非寛容、という難問はある。
さいごに。個人的には安倍さんは退任すべきだと思うが、彼に、法的に退陣する義務はない。つまりその判断は彼に任されていると思うので、声高になにかを叫ぶつもりはない。自分は、(自民党/民主党という)現状の政党の解体/再構築を促す方向へ政治的なエネルギーを注ぎたいと思う。小さな政府かつリベラル志向な政党を「個人的に」求めている。